時間と神様

この国は、

「時間と神様」を奪われてしまった

んじゃないかと思う

 


それを「愛と平和」って

言い方もできるけど、

今はもう少し具体的な話がしたい

 


どうして今だに癌患者や鬱病、

自殺者が増え続けるのだろう? 

 


夏目漱石の「こころ」を読んだとき(遠い昔)

昔の映画や、ドラマを観たとき

自分の親世代、おばあちゃん世代


 

なんでこんなにも違うんだろう…

と思っていた

 


戦争に負けた

欧米化され過ぎた

便利になり過ぎた

たぶん、どれも正解なんだろう


 

わたしは長い間

食と精神を結びつけて

考えていたけど

 


それはまちがいなく、

確実に、影響があるし

食はとても重要

 


だけど…

どんなに健康的な食生活でも

美しい自然の中にいても

 


経済的に豊かでも

健康な体を持っていても

 


それだけでは

愛と平和は手に入らないのかもしれない

 


時間の捉え方は十人十色

いつの世も母親は

忙しいものかもしれない 



でも、流れる時間の何かが違う

ような気がする 

 


時間があればいいと

いうわけでもないけど



心を亡くす、忙しさ、は

どんな善人の心をも飲み込む…

何度もそれを見てきた



デジタル化が進み、すべてが記録され

誰もが携帯を持った

曖昧さがなくなったからかな

 


私たちは機械じゃないから

時間に追われ、競わされて

 


正しさと間違いだけの世界で

紋切り型のゴールを目指しても

幸せにはなれない

 


あるはずのない答えを探して

何周も回ってきたけど

 


「時間と神様」を失ってはダメなんだ

 


そうして今、「宗教」の壁にぶつかる

 


いつだったか

「神話を忘れた国は100年以内に滅びる」

という文章を読んだ

 


その時はピンとこなかったけど

今はそうかもしれないと思う


 

そうは思っても、

神話の内容をよくは知らない

 


この国は、おかしなことに

建国の歴史や神話について

 


日本に深く関わりのある宗教について

ちゃんと教えない

 


スピリチュアルや神秘

仏教、神道、キリスト教  



暗号のような情報を詰め込まれるけど

知りたいのはそうじゃない

 


この国では、

宗教はタブー

スピリチュアルもタブー

 


だけど「宗教」のタブーは

考えれば考えるほどおかしい

 


どんな理由があるにしたって

不自然だし、理由にはならない

 


別にこの話のオチは、

最初から最後まで、

どこぞの信者になろうとか

愛国心とかの話ではありません

 

 

この前、バイトをさせてもらった

「しつけ」の本

 


小学校のお受験塾の先生の本

昔、流行ったドラマの監修もつとめた

先生は、戦前生まれの70代男性



わたしの感覚では、

それはちょっと…や、時代錯誤に

思うところもあった。

 


本自体は20年前に既出なので、

コメントしていいと思うけど、

その中にこんな下りがあった。 

 


「宗教と聞いたとたん、ある種の拒否反応を

示す人がいます。しつこい勧誘や、宗教の名を借りた犯罪まがいの霊感商法などにより、

  

『宗教』という言葉に良くないイメージを

抱いているのかもしれません。

非常に残念なことです。

 

宗教『宗』とは心を意味します。

本来、心の教えのことです。」

 


ある種の拒否反応は

わたしにもまだある

 


宗教なんて関係ない、必要ない

と言って生きてきた



そう思いながらも

わたしは、仏教が好きになっていた

  


それは、わたしの出会った仏教が

わたしの見たいものだったから

 


本や映画、旅、瞑想、

京都、奈良、鎌倉…

 


ダライ・ラマ14世、

手塚治の〝ブッダ〟

ごく自然に集まったもの

 

 

時々、子育ては精神修行のように

思えるときがある 

 


人生は人間関係、と思う時もある

 


以心伝心、

馬の耳に念仏、

縁は異なもの味なもの

弘法も筆の誤り

三人寄れば文珠の知恵

釈迦に説法

知らぬが仏

心頭を滅却すれば火もまた涼し

袖すり合うも他生の縁

地獄で仏に会ったよう

天上天下唯我独尊

仏の顔も三度

無用の用

門前の小僧習わぬ経を読む



全て、仏教に関連する、ことわざ

馴染みのある言葉ばかり 

日常的なことばかり


 

昔の人も同じだったんだな…

こういう言葉にほっとする

ことってないだろうか?

 


仏教は処世術のよう

人生のガイドラインのよう

 

 

だけど、絶対は存在しない

「諸行無常」の宇宙の法則

 「仏に逢うては仏を殺せ」 



私は買ったことがないけれど、 

下手な育児本を読むより

よほど役に立つかもしれない 

 


わたしは飲んだことないけど、

抗うつ剤よりも

よほど人生が楽になるかもしれない

 


いつからか、

色々なことを疑いながら

生きてきた気がする

 


そうしていたのは、

自分が弱く傷つきやすかったから

 


でも今は、その頃とは少し

違う見方をするようになった

 


信仰や宗教は、

科学や文明が進化したから

不要になるんじゃない

 


わたしの周りには

神道や神社好きが多い

 


彼らは誰に指図されるでもなく

自ら知識を深め、

好きな時に、自由に神社を巡る


 

右でも左でもない

自然や神秘を愛してるんだと思う

  


無意識に、この国を

愛そうとしてるのかもしれない

 


この国の土着の宗教で

日本人が長い間大切にしてきた心

 

 

神社にお神輿

初詣、七五三、厄除け

受験、安産、祈願

 


その時私たちは、

誰に、何を願っているのだろう?

 


いくら宗教をタブーにしても

私たちは文化として、慣習として

 


個人的なお願いをしに

神社に行っている

 


だって、神社はそこらじゅうに

あるんだもの

 

 

私たちにとって身近で有益で、

心が安らぎ、体を癒すものは

いつも目隠しをされる

 

 

深く考えないように

大事なことに気づかないように

目を覚まさないように

 


私たちから時間を奪い

ネガティヴなイメージを

不安や欲望のタネを蒔いて争いをさせる

 


自分よりも、他人の噂

家族の団欒よりも宿題

免疫よりも予防

信頼よりも監視


 


わたしは本当は全ては

そう難しくできてないと思う

 


不治の病なんてあるのかな?



なぜ宗教を公然と語っては

いけないんだろう

 


すぐそばに、目の前に

誰の心にもあるのに?

 


どうして私たちだけが知らないの?

なぜ教えてくれない?


 

まるで、心や神様を忘れ

日本を捨てなさいと

言われているかのよう

 


わたしの思う神道はもっと

「自然」とか「寛容」

 


好きになったとして、

何に属することもなければ

洗脳もされない

勧誘もされない

 


神道は、多神教で

万物に神が宿るという

経典はないらしい

 


まるで宇宙そのものだし

なんて、フリースタイル‼︎

 


わたしは決して知識は深くないし

それを深めたくてここに

書いてるわけではない

 

 

結局何を切り取り、受け取り

自分がどう関わるでしかない

 


わたしは、仏教徒でも

 

神道や他の何かの信者でもないし


スピリチュアルを

生業にしてるわけじゃないけど

 


今はその世界が

少しわかるような気がするだけ

 


スピリチュアルを受け入れて

シンクロに気づくようになった時

 


「トレイン・スポッティング」でさえ

スピリチュアルに思えた。笑

 


どうやらこの宇宙は

見たいものを見せてくれるらしい

  

 

 「わたしはブッダでさえも疑う」

 


この「疑う」は、絶対と決めつけず

自分で感じること

考えられる、余白の部分

 


何に属するわけでもない

何者でもないわたしが、 



これを話して

得することもないけど

この不自然が柔らげばいい

 


心がある以上、

人は神に通じてる、と思う

 


子どもの頃、誰に教わるでもなく

毎日お祈りをしていた

「どうか喧嘩を止めてください」

 


人は神様にお願いをする時、

自分の本当の願いを

知ろう、思い出そう、とする

 


神様は見えないけど

神様には嘘をつけない

 


真剣な時、危険な時、咄嗟の時

生死を彷徨う時

自分に嘘はつけない

 

 

知りうるのは、自分の心、

心は移ろいやすく、

あっという間に道を踏み外す

 


だから世界には

信仰や、宗教があるんじゃないの?

 


仏教の「諸行無常」や「煩悩即菩提」

という教えは、わたしに勇気をくれたし 

 


わたしの知ってる瞑想は

ゴータマ・ブッダが発見した瞑想だった

 


今は、近所の神社に行くだけで

スッと気持ちが晴れたり、心が安らぐ

初詣は一度も欠かしたことがない

 

 

この神様だけが救う、

この神様じゃなければ、地獄に落ちるとか、

そんなものじゃなくて

  

 

その道は開かれていてほしい

来るもの拒まず、去る者追わずで

あってほしい。

 


例え過ちを犯しても、

悔い改めれば、許してほしい

 


わたしは

好きな時に神社に行き、

好きな時に瞑想をして

好きな時に仏教用語を思い出すけれど、

 


それを咎められたことは

一度もないし

何度も助けられている


 

人を信じるか、自分を信じるか

神様を信じるか

 


どれも欠けてはいけないけど

どれも欠けてしまっている

 


自分は正しい、あいつが悪い

 


私たちが目の敵にする彼らは

気まぐれな私たちよりも

ずっと神様を大切にしているらしい

 

 

彼らの計画は

わたしが生まれる前から

準備されていた

 

 

もみ消し、すり替え、目をそらす

私たちの努力は

いつも踏み潰される

 


目の前が、何度も真っ暗になった

万策つきたか…

 


いや、目が醒めたのかもしれない

 


この宇宙は、

思いと行動の強さによって

集合意識に変化を与えるとしたら?

 


引き寄せ、バタフライ・エフェクト

日本にも「予祝」というものがあった

 

 

私たちの意識が

そこに注がれるほど、

彼らにパワーを

与えてるかもしれない 

 


そうなってほしくない

そうなったらどうしよう 



その意識の中に、

その未来を受け入れかけている?

 


私たちはどこに向かいたの?

誰かを変えようとするほど、

 


じれったくて、歯がゆくて

傷つき、腹立たしくもなる 

 


悪を憎むあまり、

自分の心はドロドロになる

傍観者を恨めしく思う

 

 

本当は何を取り戻したいの?

 


私たち自身が自分と向き合って

目の前の家族や、友人と向き合って

 


真に愛や平和を取り戻していけば

ヒールは必要なくなるかもしれない 

 


神様はどんな姿だろう…

善なのか?悪なのか?

 


きっと、どちらも内包している

全体で調和をとろうとしている?

 


集合意識と言う考えも

すごく腑に落ちる

 


この前読んだ神社の本には

「意思を持った知的生命体」

と書いてあった

 


こちらにとって

どんなに悪でも、

彼らの正義があるのだろう 



彼らが悪であるほど

私たちは、目を醒ます

 


私たちが、愛や平和に目覚めて

神様を思い出したり

時間を取り戻すために

いるのかもしれない

 


私たちが愛に目覚め、

心に耳を傾けて

平和を取り戻せば

その悪も消えるかもしれない

そうであってほしい

 


すべては一人一人の

選択なのかもしれない

すべては繋がっているのかもしれない

こうなったら徹底的に無視して、愛に生きてみよう