普通の幸せ

GW中、ダンナさんと友達が

ベロベロで帰ってきて

その勢いでお店に行き

 


わたしはお腹の調子が悪くて

一滴も飲みませんでしたが

 


夜の雰囲気にのまれて

いつもよりお店が

イケてるような気がして

 


しつこく写真を

載せてしまいました。

 


映像をプロで扱う知人がいるので

わたしがこんなことを

言うのはおこがましいけど、 



写真も、映像も 

嘘ではないけど、

真実でもないなとよく思います

文章もそうですね。

  


翌日ダンナさんは

ひどい二日酔いでした。


  

思えば、GWにあやかって

息子もおやつを食べまくり

  


お店の試食や、外食が続き

家族みんなの食生活が適当すぎて



息子は口内炎ができたり

わたしも食欲がなく

二、三日まともに食べれなかったり

 


その後に飲んだ、お味噌汁が

ほんとに美味しくて

息子は三杯も飲んでくれました。

 


誰にとも言えない

「ありがとう」や「ごめんなさい」

という、言葉が浮かんで


 

それで、これはいよいよ…

立て直さそう、と心底思いました。 

   


わたしの食生活の乱れは

GWより、もっとずっと前からで



あんなに頑張ってた

自然療法や、マクロビも

しばらく距離を置いてました

 

 

わたしにとって、

いつからか、

食べ物はとても大事で

 


それは、

好きな人とおいしいものが

食べられる幸せ

 


嫌なことがあっても

簡単に欲求不満を

満たしてくれるもの

 


だけど、体調を崩して

「何も考えずに食べる」

ことが当たり前じゃなくなってから

 


方向はぐるっと変わって

口に入れるものは厳選

お菓子も手作りしたりで

つづけてました。

  


目先の手間やお金はかかるけど

わたしにはこういうやり方

しかないと思っていたし

  


長い目で見れば

たぶん、何周回っても

それは変わらないと

いつも思ってました。

 


今思えば、それは

信念があったからできたし

  


もっと言えば、

気力と体力で

 


気力と体力を養うための

食養なんだけど、

 


食養を始めて約10年

自分にとっては初めての事態

 


自分の核となる食への

それまでのやり方が

 


自分を健やかに

保つための食養が

 


逆に自分をストイックに

縛り付ける存在に思えて

 


それ以上の

「やらなきゃ」「かくあるべき」

「そんなことどうでもいい」

に初めて、挫折しました。


 

環境の変化も、心境の変化も

激しかった10年で

 


食に限らず

それまで自分を保っていたものは

通用しない、維持できない…

新しいやり方を模索する…

 


「脱皮」と「再生」を

繰り返していたようでした。

 


きっと、それはこれからも

続くと思うけど

 


自分としては、いつも絶えず

どこかで代謝がおきて

変化に適応していた 

つもりでいたけど、

 


ある時、本当にすべてが

どうでもよくなって

心も体もストライキ

 


自分をとりまく

全ての糸がギューっと張り詰めて

プツンと切れてしまいました。  

 

 

心のどこかで

これもまた過ぎさる…と

わかっていたけど


 

その状態からしばらく

抜け出せなくなってました。 

 


たぶん、望んだから

そうなったのだろうけど 

 


やりたいことをやるとか

それ以前に、

何もしたくなく、何もできなく

それは想定外でしたが

 


こうなってしまったからには

一度リセットしよう

止まろう

 


それをやり切ろうとすると

追い込まれる自分

罪悪感に打ちのめされる

 


なぜなら、わたしは独り身じゃなく

小さな子供もいるので

 

 

色々と大荒れだったけど、 

他に方法もなかった

 


そして今回のGWの体調不良や

息子の様子を見て

 


息子の為に買ってきたりんごと

息子の為に作った梅醤番茶を

ついでにわたしも食べて飲んだら、

なんだか元気になった 



そうだこれだった!

という感じで

  


やっと、ここぞという時

というか、家族の為に、

今一度!と思えた。

 


かと言って、

昔のようには頑張れないけど…



とにかく、

その時期は自分のために

梅醤番茶を作らなかったし

 


自分の為だけに、

時に、家族の為にも

お味噌汁の出汁を 

とろうとは思えなくて

 


お母さんになって

色んな方の話を聞いたり

生活を見せてもらい

ブログや雑誌、本を読んだり


 

これまで日本は

お母さんの自己犠牲スタイルが

定着してるけど、 

 

 

自分の親や、親世代を見たり

話を聞かせてもらって

 


それを当たり前に継続するのは、

そろそろ限界だと思うけど

じゃあ、どうすればいいのだろう?

 


こんな話は、

余計なお世話、と思う人は

きっとそのままでいいだろうけど

 


お母さんが自分の為に

自分をケアをする間(ま)が

いるんだといつも思います

 


それは、もちろん時間だし

居場所とか、余裕とか

  


当然、方法は人それぞれで

もしかしたら

一人旅に行っちゃうかもしれないし

 


たった5分の息抜きでも

いいかもしれない

  


わたしの母親は限界まで

頑張っちゃう人で

父親は厳しかったから、

 


もう「お母さん?息してる?」ってくるい

世話しなく動いてる時があって、 


 

わたしが瞑想を知ったあとは、

「呼吸が浅いんだよ」って

いつも思うし、言ってます。 

 



わたしも、〇〇しなきゃに

追われてる時は

ほとんど呼吸を忘れてる

(大げさだけど本当)

 


お母さんが自分のことを

後回しにし続けると

結構なツケがやってくる気がします


 

かといって、あまり道を

踏み外しすぎても

罪悪感でやられる 


 

やっぱり人間は

相対的な生き物なんだな

一人で道を外れるってハード

 


わたしは、極端になりがちだから

今回もつくづく

バランスだなと思いました。


 

そして、意外にも

「普通の幸せ」という「幻想」に

挑戦したくなりました。

この道のりこそ険しい…

 

(この記事は、2017.5.10に書いたものです。

まちがって複数のブログを

開いていたので、1つにまとめました)

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